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懺悔文

懺悔文 一遍

我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)

皆由無始貪瞋痴(かいゆうむしとんじんち)

従身口意之所生(じゅうしんくいししょしょう)

一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)


意味

私が昔(輪廻転生、前世)からなしてきた様々な悪しき行い(自分または他者に苦しみをもらたす行い)は、

全て始まりもない太古からの貪りと怒りと愚かさ(三毒)を原因として起こったものであり、

体と言葉と心(三業)よってなされたものである。

自分の行ってきたあらゆる悪い行い全てを、私自身が今ここに全て反省し改める。


現代語訳

私が過去に行ってきた過ちは、全て始めも分からない深い貪り、怒り、愚かさによります。それは体の行い、口の行い、心の行いから生まれ起きたものです。全てを私は今、仏様に照らされて悔い改めます。


解説

般若心経の前になぜ懺悔文か。それだけ人は罪をおかして生きていて、自分自身がそれを認め詫びなければスタート地点にも立てないということです。聞こえのいい言葉、教えに流れるのが人ですが、本来修行とは苦行です。体があるうちしかできません。人で生まれた以上、己の因果を解くことが本来の役目です。苦行ができなければ中途半端な生き方になります。

釈迦の教えは苦しみから解放され、幸せになることです。その苦しみの原因は、自己中心的な欲望です。己が今日までに作ったあらゆる罪の恐ろしさを痛感し、心から悔い改めることが大切です。

生命の三つの根源的煩悩(仏教では三毒という)

・貪り:淫欲、財欲、名誉欲など

・怒り:自分を見失い怒りに任せた状態

・愚かさ:心が欲望におかされ、道理のない状態は己の身と口と心から生じたもの

学ばなければ罪を増やす生き方しかできません。例えば、相手が間違っていると気づいても無難にやりすごす、指摘できないことも罪となるのです。


懺悔したからといって全て帳消しになるわけではありません。やってしまった罪は消えません。ますます煩悩の深さを知り、心から懺悔し、決して悪行の報いを忘れないことです。その苦しみから離れるにはあらゆる善行に施すのです。その善行が心より己の喜びになったとき、そこで初めて懺悔の功徳(※1)が現れるのではないでしょうか。


無責任な人間、己を見つめ直し懺悔しましょう。仏教には「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」(※2)という言葉があります。他人のことをとやかく言う前に自分の足元を見よということです。


曹洞宗の開祖道元の著作である『正法眼蔵』の中に、『修証義(しゅうしょうぎ)』があります。「修」とは実践修行、「証」とは悟り、「義」とは意義という意味で、冒頭には「生を明らめ花を明らむるは、仏家一大事の因縁(※3)なり」と書かれています。

生とは何か、死とは何か、私たちは一生をどう生きるべきか、死に対してどう向き合うか等、生死(しょうじ)の問題を明らかにしていくことは真実の道を求める者にとって最重要課題であると示されています。


なぜ自分はそれを怒るのか、まず怒りや愚かさを認めるところから始めてみましょう。


(※1)功徳=神仏からよい報いを与えられるようなよい行い。世のため人のためになるようなよい行い。

(※2)脚下照顧=自分の足元をよくよく見よ。ほかに向かって悟りを追求せず、まず自分の本性をよく見つめよ。という戒めの語、転じて他に向かって理屈を言う前にまず自分の足元を見て自分のことを反省すべきこと。また足元に気をつけよ、の意。身近なことに気を付けるべきこと。

(※3)因縁=物事はすべてその起源(=因)と果を結ばせる作業(=縁)によって定められている。転じて物事の持っている定まった運命。

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