ミホちゃん博士の会話 (馬鹿と貧乏と死の稽古)
博士
通俗的な言葉で指導された用語の中に、こんな言葉がある。
「馬鹿と貧乏と死の稽古」
ミホちゃんは、意味をしっているかね?
ミホちゃん
馬鹿と貧乏と死の稽古???
ん~馬鹿は「なんでも馬鹿になれ」で貧乏は「ボロは着てても心は錦」 で死「誰にでも訪れる事だから覚悟しなければならない」かな???
博士
ほっほっほっ 面白い回答じゃな。
回答はこうじゃ!!
馬鹿の稽古とは「誇らず」
貧乏の稽古とは「物の尊さを知る」
死の稽古「無私の生活にてっする」じゃ。
ミホちゃん
できれば、もっと砕けた説明をお願いします博士。
「誇らず」と言われても、何を指しているのかよくわかりません。
例でもいいので、お願いします。
博士
そうじゃな。まずは「馬鹿の稽古」から、広く人生を見れば、学識経験や、 知能の優劣にかかわらず、誰でも必ず多少なりとも誇りと言う心を持っている。
この、誇りの主点を取り違えると自惚れになり、必要以上に自己を尊大ぶるのじゃ。 このような状態になると自己慢心が悪化して、意見や忠言を素直に聞けず、 仕事で失敗したら愚痴をこぼす。このような人生の愚かなる心を自覚することをいうのじゃ。
ミホちゃん
身を低く馬鹿になれとは自分を偉いものと思わず
素直に他に学ぶ気持を持つことを指していて
つまり、常に謙虚な姿勢を忘れてはならないと言うことなんですね。
では、「貧乏の稽古」についてお願いします。
博士
「貧乏の稽古」じゃが、物の尊さを知ると言うことじゃ。
しかし単に物を尊えばと言うものではなく物の持つ価値と、 それにふくまれる世の恩をしる事をさしているのじゃ。
我々の日常生活を考えてみても、食事にも、 衣服一枚にも物の生命と限りなき人の努力が含まれているじゃろ?
このお陰を知り日々の生活を通じて報恩感謝の心に生きるこを、貧乏の稽古というのじゃ。
ミホちゃん
身の回り全ての物に魂が宿っていると言うことなんだね。
つまり、一つ一つを大切に使わせて頂き、不要になったものに対しては、 しっかりと御礼申し上げて手放すことが大事なんですね。
では次に、死の稽古について教えて下さい。
博士
「死の稽古」とは、無私の生活であり「人生とは生まれる時が裸であり死に行く時が裸である。 一切が裸道中と知るべし」とは如来さまの訓言じゃ。
いかなる地位、名誉、権力も、全てが借り物の人生である。
それにもかかわらずひとたび得た利益を固守しようとする。
何事に対しても無私平等の心で見ることが出来たら、闘争は生じないのじゃ。
この心を得ることこそが、死の稽古じゃ
ミホちゃん
自分が神の分心霊としての生命を頂いて、大きなお陰さまの世界に生かされている有難さを知って 毎日を精一杯、生きるということですね。
つまり、人は裸で生まれてきて、また死ぬ時も裸であるなら、裸道中でもいいじゃん。
だからこそ、報恩感謝の心を忘れてはいけないよと言うことなんですね。
博士
そうじゃな。ミホちゃん、この短時間でよくわかったの。
人間は、馬鹿と貧乏と稽古するのが一番よいのじゃ。
目で聞け、耳で見よ、目で見ようとするから、きっと見間違えてしまうのじゃ。
人間は色メガネをかけたがる生物じゃ。
じゃがしかし、このままにしとくと、将来使い道にならない人間になってしまうぞ!!
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● 通俗的な言葉で指導させた用語の中に「馬鹿と貧乏と死の稽古」とゆう言葉がある。
● 馬鹿の稽古とは誇らずと言うこと。 つまり、貧乏の稽古とは物の尊さを知ること、死の稽古とは無私の生活に徹すると言うことです。
広く人生を見れば、学識経験の有無や、知能の優劣にかかわらず、 誰でも必ず多少なりとも誇りが悪いというのではないが、誇りの主点を取り違えると自惚れになり、 必要以上に自己を尊大ぶると共に、他を軽蔑する感情が湧きおこってきてしまう。
このような、精神状態になると益々自己慢心が増徴し、他人の意見や忠言を素直に聞き入れることが出来ず、 我慢我執のみを押し通してしまう。
しかも、結果が悪ければ他人のせいだと愚痴をこぼし、 他を恨み、益々救われざる心境に陥るのである。
これは、人生の愚かなる心の表れで、これを自覚することを馬鹿の稽古と言う。
● 貧乏の稽古とは、物の尊さを知ることである。
しかし、それらは単に物のを尊ぶと言うのではなく物の持つ価値と、 物に含まれる世の恩を知ることです。
元来貧乏とは、文字通り貧しく乏しく物質の不足による生活苦を表している。
それは、結果のおける状態で、その根本のおいては心の貧しさが貧乏の一因となっている。
私たちの日常生活を深く掘り下げて考えてみると、食事でも、 衣服一枚にも物の生命と限りなき人の努力が含まれています。
このお蔭を知り日々の生活を通じて、報恩感謝の心に生きることが貧乏の稽古となります。
● 死の稽古とは、無私の生活であり、転じては一切に対し平等観に徹することです。
「人生とは生まれる時が裸であり死に行く時も裸である。一切が裸道中である」
いかなる、地位、名誉、権力の持ち主でも、その一生が終われば社会へ返し、 生存中最も大切な自身の肉体さえも地中へ返していきます。
すべてが借り物の人生です。だから、ひとたび得た権益はあくまでも固守してはいけません。
固守しようとするから、闘争が生じます。
もう一度書きますが、一切が借り物です。
この考えできれば、何事に対しても無私平等の心を持って見ることが出来るから、 そこには闘争は生じません。
つまり、この心を得ることが死の稽古となります。
● 馬鹿と貧乏と死の稽古に徹すれば、こだわりなく明るく爽やかに生きることができる。
また、心から人の幸せを喜び、願うことが出来るようになります。
● 悧巧ぶっては争いを起こします。
悧巧は魂に厚化粧をします。
だから、馬鹿が一番楽なのであり、心貧しく貧乏となる。
人間は馬鹿と貧乏と死の稽古をしているのがいいのです。
● 目で聞けよ、耳で見よ、目で見るから間違える。
人間は色メガネを掛けたがるから、勝手な思い込みと、勝手なきめつけをする。
そんなことをしていると、使い道のない人間になってしまうよ。
● 愛すること、捧げて生きることこそ、一切の幸福、喜びの源になる。
お金は万が一落としても、拾われた人によって生かされてることもあるが、 物は粗末に扱うと二度と生かされないのだから、 お金以上に気を使って物を大切に扱わなければならない。
● 今、日本の国内外に目を転じますと、被災地の復興はまだ始まったばかりであり、 原発関 連の問題は山積しています。
さらに、政治、経済、外交などにおいても、 国民が真に安心して暮らせる状態になっていないのは火を見るよりも明らかです。
このような世相の中にあって、私たちは、謙虚に身を正し、どうあったら良いか、 何をすべきかを気がつく時だと思います。
● 「人間は心得違いが多すぎます。一銭的人間が一銭の分際をわきまえず、 自分が大層えらいと思い、神仏を馬鹿にするのは、むしろおかしい。虚勢を張っても一銭は一銭です。
一銭も一銭なりに用を足せば、それで一銭の役目を果たします。一銭が百円、 千円の見栄を出すから秩序をみだします。自分は一銭である。
十銭の十分の一である。軽い身分であると謙遜すれば、十銭のほうが位負けするでしょう。
こんな立派な一銭が十人集まってこそ十銭も価値がある。 だから、馬鹿の一銭なくして十銭は存在しないし、一億円もありません。
一銭とは、平和・調和への第一歩です。」
● 私たちは「馬鹿の一銭」にならなくてはなりません。
そしてそれぞれが「立派は一銭」としての役割を果たし、 被災地の一日も早い復興に出来るだけの力を尽くし、日本の再建の礎となっていきましょう。